石井桃子伝

1940年代、かつて日本が戦争になり言論統制が厳しくなったときの、石井桃子の、そしてその時生きようとしていたすべての人の苦しみが、ひしひしと実感をもって伝わってきた一冊でした。「あの戦争中の日本人の意識っていうのは、今の常識というもので、判断できない。一種の狂気・・・。普通の平和な時代なら、とてもやらなかったことを、思い切ってなんとかするっていうんじゃなくて、生きるためにそれをしなくちゃならなかった。そういうことだったとおもうんですね。(~)もうほんとうに明日のことはわからない。で、計画なんて言ったって、きちっとしたこと考えることができないんです。行き当たりばったりで、何かできることから始めるしかなかった・・」静かで才気ある編集者として、菊池寛、山本有三、井伏鱒二、太宰治などそうそうたる文人たちの信頼をえながらも、食べていき生きてゆくため懸命に働く石井桃子。いっぽうミルンの『クマのプーさん』『プー横丁にたった家』などに出会い、アルバイト先の子どもたち犬養道子たちに訳して読み聞かせていた笑いとウィットにとんだ日々。20代の終わりには華やかな若者たちのグループに入っていてその親交は晩年までつづいたことなどは、この本であきらかにされた意外な事実だった。それにもまして、私がもうほんとうに驚いたのは、戦争が終わる年に宮城県の農村で働いていたという今までもっていた知識をはるかに超えて、友人と泥まみれで開墾にいそしみ、稿料をはたいて牛を飼い、乳を搾り、「ノンちゃん牧場」と名付け、6年後には田畑3ヘクタール、畜舎、サイロ3基、乳牛8頭を持つまでの規模までその仕事にお金と力をそそぎ、宮城と東京との往復生活を10年以上も続けていたという事実だった。戦争のあと、児童文学への道を着々と歩みつつ、とんでもなく大変な田畑の仕事を始めた石井桃子さん、きっと冒頭の戦争からの出発があったのだと思います。今、日本のこのおそろしい夏の動きを、石井さんはどんな思いでみていらっしゃるのでしょう。エリナー・ファージョンの『ムギと王さま』『りんごばたけのマーティンピピン』のとろとろするような気分とシャープな人間観察の物語をうっとりと、石井桃子さんの訳で読ませてもらって、そこにでてくる「あ、そう」とかいうあいづちのことばだけでも、読む楽しみが何倍にもなりました。そんな石井桃子さんのことを、豊かに語ってくれた一冊でした。湯河原図書館にあります。(『ひみつの王国』評伝石井桃子 尾崎真理子著 新潮社)